苦悩を愛せ

2023-10-07

最近、友人との間で転職話が多くなってきています。ものすごい人間臭さを感じる部分でもあり、とても親しみを覚える話です。日々仕事や生活をするなかで、さまざまな問いから悩みが生まれますがその悩みにどう対処していけば良いのでしょうか。本当はマニュアルのようなものが欲しいところです。一発で悩みを解決するような銀の弾丸はあるのでしょうか。

大前提として、タイトルから察するようなスパルタに生きようという話ではありません。そして、生まれた環境が違う人たちも当然いることを知っています。私は私が生きてきた範囲のことしか知らないので、そこの配慮が雑になってしまうことは許してほしいです。そして考えの改良の余地は無数にあることを。

四半世紀を生きてきたなかで最近感じてきたことがあります。それは「自分と他人はほとんど点で同じである」ということです。多様性が重要視されつつある世界で「自分(=個)」という存在がどうしても強調されてしまう、ある意味で苦悩を増幅させてしまっていると感じています。

なぜなら、頑張って自分を出さなければならなくなるからです。

自分を見つけないといけない時代になったと言っても過言ではありません。それはつまり強制的に個性を求められる時代になったということです。

ミヒャエル・エンデ氏の著書『モモ』のなかでこのように書いています。

こうして子どもたちは、ほかのあることを忘れてゆきました。ほかのあること、つまりそれは、たのしいと思うこと、むちゅうになること、夢見ることです。しだいしだいに子どもたちは、小さな時間貯蓄家といった顔つきになってきました。やれと命じられたことを、いやいやながら、おもしろくもなさそうに、ふくれっつらでやります。そしてじぶんたちの好きなようにしていいと言われると、こんどはなにをしたらいいか、ぜんぜんわからないのです。

強制されることによって、正しく認識できなくなることは多々あります。

私自身、大学時代から「自分らしく生きる」という言葉に何か違和感を抱いてきました。ここで逆に問いたいのです。自分と他人はどこまで違う存在なのでしょうか。

私の代は社会人2~3年目の代であり、どうやら転職を考える時期らしいです。いろいろな友人と話していて、業種や交流関係は違えど、どうやら悩んでいることは一緒ということがわかりました。

「転職だから」という特定のある時点での悩みではなく、ずっとある線形的な悩みです。ただ、今後大きな分岐点になりそうな時期になると明確にわかりやすく、目の前に現実として現れるのでしょう。

その悩みは例えばこのような問いから生まれます。「自分は何がしたいのだろうか」「自分はこのままでいいのだろうか」「本当にやりたいことって何だろうか」「どうしたら幸せになるのだろうか」「自分が求めてるものは何なのだろうか」。

誰もが追いかける永久不滅の問いであり、思い出すたびに苦しくなってくる重い問いです。自己啓発本にはその答えが書いてあるように見えますし、読んだら楽になります。誰かにアドバイスするときには簡単にできます。

しかし、自分のことになると何もわからなくなるのです。

すぐに答えられたらどれほど楽かわかりません。時には「自分探しの旅」という旅をする人もいますが、自分は常にここにいます。

ほとんどの人は同じ苦悩を抱えているのではないかと思います。だから「自分と他人はほとんど点で同じである」と感じます。厳密に考えると容姿、思考、価値観、仕事、特技などそれぞれ違うところもあります。具体的に考える、つまり、ミクロ視点とマクロ視点は違って見えます。しかし、苦悩が一緒だと思うと妙に親しみを感じます。

この苦悩は、突き詰めて考えるとたった一つの問い「なぜこの世に生まれてきたのか」という問いに行き着くのかもしれません。

ひとつ、私は真理に近いのではないかと思ってる考え方があります。1946年に出版されたナチスの強制収容所の体験記『夜と霧』に出てくるある一節です。

その著者であるヴィクトール・エミール・フランクル氏曰く、

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

「自分が問う存在ではなく、逆に人生に問われている存在である」というパラダイムシフトは、メタ認知を生じさせます。私たちは、人生から問われている存在なのだから、その場その場で答えを出していくしかないのであって「人生とは何か」と問う側の存在ではありません。

そもそもこれらの問いは絶対的な答え(=解)が存在しません。たとえば「本当にやりたいことは何か」という問いに数学の解のような絶対的な答えなど存在しません。

だからこそ、これを「悩み(=苦悩)」と呼びます。いくら考えても知れたことだからです。答えなどないのです。決して自分探しの旅を否定するつもりはありませんが、その行為に答えを求めれば、悲しい現実に向き合う羽目になります。

答えも求めて一人旅をしたことがありますが、家に帰ってきたのは今までと変わらない自分なのです。これだったら、何も旅先で考えずに、その場その瞬間を楽しんだほうがまだ記憶に残ったことでしょう(こうして、私の中での自分探しの旅は記憶にもほとんど残らない、つまらない旅になったのです)。そう、重要なのは、その瞬間です。

安宅和人氏は「考える」と「悩む」の違いを『イシューからはじめよ』の冒頭部分で明確に言い当てています。

「〈 考える 〉と〈 悩む 〉、この2つの違いは何だろう?」 僕はよく若い人にこう問いかける。あなたならどう答えるだろうか? 僕の考えるこの2つの違いは、次のようなものだ。
「悩む」 = 「答えが出ない」 という前提のもとに、「考えるフリ」 をすること
「考える」 = 「答えが出る」 という前提のもとに、建設的に考えを組み立てること
この2つ、似た顔をしているが実はまったく違うものだ。

決して悩むこと=悪いことではないことに注意です。 しかし「悩んでいる」という問いに対して「考えている」と思い込むことは辞めたほうが良いでしょう。

絶対的な解があることを妄信して、無理やり解を生み出すと数時間後、数日後、数か月後、数年後に自分の中で乖離が起き始めます。思考は流れであり、自分もまた流れのなかにいます。

一生懸命に考えても、それは悩みなので絶対的な解はないのです。私たちができる選択は、悩みを悩みだと知って悩むことだけです。そして、もう一つの選択は問われたとき全力で瞬間的な解(その場で思う解)を提示していくことです。

もちろん納得できることは少ないと思います。同じ問いでも瞬間的な解なので、今日と明日では違うかもしれません。自分の中に存在する矛盾を感じることもあるでしょう。しかし、それもまた悩みの一部です。

そう、結局のところ私たちにできるのは、瞬間瞬間に応えていくことだけです。それが「生きる」ということなのかもしれません。

「自分が求めてるものは何なのか」という問いは、今後何十年も向き合わなければならないだろうし、完璧に答えを出すことはできないでしょう。腑に落ちる言葉が見つかれば、それはそれで良いのですが、それが見つからないこともあるでしょう。

しかし、そもそも私たちはそうした問いを常に一方的に投げ掛けられる存在であることを忘れないようにしなければなりません。

だから問いに応えていかない限り、泥沼にはまっていくことが簡単に想像できます。苦悩自体は排除することなど私たちにはできません。

問いに答えていくこととは、すなわち、苦悩を受け入れることです。答えないのであれば悩むことしかできません。では、どうすれば良いのか。この世は無常であり、苦です。だったらいっそのこと、苦悩を愛せばいいじゃないかと。そういう結論に至ったのです。