消費は問いに応える
2024-09-21
現代社会において、私たちは日常的に情報、商品、そして作品といった多様なコンテンツを消費している。その行動は、単なる生活の一部でありながら、内的な欲求に向き合う行為とも言えるだろう。
今年に入ってから、「人間を知れ」と言わんばかりの啓示を受け、これまで以上に自分の時間を消費行動に費やすようになった。仕事以外の時間は本を読んだり、作品を鑑賞することに集中し、ただ単純に楽しんでいる。
本は大学時代、通学時間が長すぎて暇すぎて読み始めてからずっと読んでいたのだが、興味深いのは、かつて無駄だと感じていた作品の消費に、なぜ今になってこんなにも面白さを感じているのかということだ。
かつては、ゲームやアニメといった娯楽をただの時間の浪費と捉え、ゲーム機やソフトはすべて処分し、80歳までゲームを禁止した。ハマると飲まず食わずで続けてしまう悪い癖があるため、今でもゲームはやらないままである。アニメも以前ほどは見なくなった。
しかし、今やそれらの消費行動が、内なる「問い」に応えるものだと考え始めた。
自己満足的な消費に出会えることは実際、幸せなことである。それが無駄なのか無駄ではないのかは、外部の誰かではなく、自分の心が知っている。自分にとって意味がある消費であれば、それだけで十分に価値があるのだ。
逆に、問いに応じない消費で、なおかつ面白さも感じられないのであれば、それは自分に合っていないということで単に「つまらない」として済ますだろう。無理にそれを「良い消費」にしようというものでもない。
『けいおん』や『Angel Beats!』を見始めた小学生の頃は、アニメはまだ一部の限られたオタク文化に過ぎなかった。そしてアニメが好きだと公言することを控えるような時代だった。
現在は、世界的に認知されるサブカルチャーとなり、私自身の関心もより深まった。学生時代は、アニメをただ楽しいから鑑賞していただけであり、特に深い意義を感じていたわけでもない。だが今、鑑賞してしまった数百ものアニメが、違った視点で新たに息を吹き返すという感覚が表れ、寝ている暇も惜しくなるほどだ。
この変化は「消費は問いに応える」という性質に起因しているのではないか。
人は消費行動自体から問いが生まれると考える。作品には作り手の意図があるからだ。だが、実際に問いを生み出すのは作品そのものではなく、自分自身である。それをどう受け取るかは自由であり、私たちは自分の問いに従って作品を解釈することができる。
作品は私たちに素材を提供してくれるが、それを深く考えたり、新しい視点で問いを立てたりするのは私たち自身の役割だ。
インターネットの普及により、私たちは膨大な情報や商品にアクセスできるようになり、消費は容易になった。その一方で、刺激的なコンテンツに簡単に流されてしまう消費の罠も多くなった。潜在的であるか顕在的であるかに関わらず、日常生活において「問い」を持たないということは、私たちはただ受動的に情報に流され、それらをただ消費してしまう行為を許すことになる。
主体的な消費を行うためには、常に自分の内なる問いに敏感であり続けることが求められる。
消費とは何かを得る行為であり、私たちの生活の中で無意識のうちに行われているものだ。しかし、消費を単なる行為として見るのではなく、問いに応える手段と捉えると、まったく違った世界が開けてくる。私たちが何かを消費する際、それは単に物質的な満足を求めているだけではなく、むしろ私たちの内にある「問い」—関心、好奇心、自己理解への欲求—に応える行動なのだ。
例えば、読書を考えてみよう。読書は単なる情報摂取ではなく、読者の経験や知識、そしてその時の関心によって大きく変わる。あるテーマに深い関心を持つ読者は、特定の作品から深い洞察を得られ、その作品は新しい視点や発見をもたらしてくれる。逆に、問いを持たずに同じ本を読むと、その本はただの文字列に過ぎず、本質を捉えることはできない。問いがあるからこそ、私たちは消費する対象から価値を引き出すことができる。大学に入学するまで本に興味がなく、ほとんど読めなかったのも、ただ文字列にしか見えなかったからだ。
これは、読書や映画鑑賞といった文化的消費に限らず、日常的な買い物や商品の消費にも当てはまる。たとえば、何気なく食べている食品でも、その背景や製造過程に問いを持ちながら使うことで、より深い理解や愛着が生まれることがある。私も普段食べていた料理が実は地元の郷土料理だと知った時、急に愛着が湧き、工場にまで足を運んだことがある。
一方で、問いを持たない消費は、単なる時間の浪費になりかねない。何も考えずにTikTokの動画を漫然と眺め続けるように、深い思考や内省を促すことがなければ、消費はただの視覚や聴覚への一時的な刺激に過ぎない。中学生の頃、沢山のアニメを消費していたが、その多くが単に時間を潰したり、面白いから見ているだけであり、深い問いを持たなかったために得るものは何もなかった。
それでも、ただ楽しむ消費の形を否定することはできない。好きなものに心を委ね、ただ楽しむことができるのは、消費の本質でもある。そんな素晴らしい趣味に出会えるのは、めったにない幸運なことだ。
問いを持って主体的に消費することは、新しい視点を与えてくれる。視点とは、物事を異なる角度から見るためのレンズであり、それを通じて消費の対象が単なる情報以上の意味を持つようになるのだ。
結局のところ、消費とは問いに応える行為であり、それが私たちの日常生活に豊かさをもたらす。私たちが普段何を考え、消費しているか、それが私たち自身を形作っていると言えるだろう。私たちが食べるものが身体を作るように、私たちが消費するものが私たちの思考や価値観を形成している。
だからこそ、うまく消費するというのは難しい。貨幣の使い方が上手い人は、自分が何を求め、探しているのか、つまり「問い」を明確に持っている。下手な人は、自分が本当に何を欲しているのかを考える「問い」を立てるのが苦手なのだろう。曖昧なまま、流されるままに消費してしまうと、一時的な満足感や価値は得られても、心の安定や充実感にはつながらない。
思い返せば、子供の頃は無意識的に自分の欲求をよく知っていた。高価なものがなくても楽しめたのだ。欲求がシンプルで、余計な問いを立てる必要がなかったのかもしれない。大人になるにつれて、私たちは選択肢が増え、物質的な豊かさに目を向けるようになった。その分、限られた中で工夫することや無目的に楽しむことを忘れ、自分が本当に求めていることが見えづらくなっている。
無数にある選択肢の中から本当に必要なものを選び抜くには、勇気と覚悟が求められる。何を選び、何を手放すか――それが、私たち自身をどのように形作るのかを決めていく。
消費は、自らを映す鏡である。