アーティファクトの環世界

2025-09-27

諸君はサイエンスフィクションの世界で、犬や猫と心を通わせ、言葉を交わすシーンを見たことがあるだろう。あるいは、ヒト型ロボットが人間と並んで議論を重ねる場面を思い浮かべるかもしれない。

そうした描写が示しているのは、異なる存在と対話することの可能性である。

動物に話しかけるのは、決して珍しいことではない。返事を期待して声をかけ、そのしぐさや表情を読み取る。

では、機械に話しかけるのはどうだろう。

それもまた、特別なことではない。工場で働く技術者は「今日の調子は?」と機械に問いかけ、微かな異音や振動から状態を読み取る。耳を澄まし、違和感を感じ取る。その行為は確かな対話といえよう。

もしこの対話を「機械君、最近の現場はどう思うかい?」とさらに深められたらどうだろう。人間の直感では気づけない機械の経験値と、技術者の経験知が重なり合う。両者が補い合い、真正面から対話することで発想は膨らみ、これまで見えなかった改善策や革新の方法が姿を現す。

人間の視野は驚くほど狭い。私たちは自らの感覚と経験に依存して世界を理解する。見えないものは「存在しない」とみなし、異なる世界を前にして「異世界」と呼んでしまう。しかしそれは、相手が異質だからではなく、自分の認知が閉じているからだ。

ドイツの生物学者であり哲学者でもあるヤーコプ・フォン・ユクスキュルは、世界を「環世界(Umwelt)」という概念で捉えた。すべての生物は固有の感覚に閉じられた世界を生きる。コウモリは反響、ミツバチは紫外線、犬は匂いを通じて世界を読む。互いの環世界は根本的に異なるが、私たちは自分のそれこそが世界そのものだと錯覚する。

それでも人間は人間同士の異なる視点を結びつけてきた。その交差が新たな発見を生み、人類史を前へと押し進める。

では、生物ではなく、人工物から視点を借りることはできるだろうか。

顕微鏡や望遠鏡は、人間の肉眼には届かない領域を映し出す。人間の環世界を押し広げ、他の環世界の輪郭に触れる手助けをする。ただし、それは常に人間向けに翻訳された像であり、環世界そのものを越えることはできない。

AIの演算は、人間の直感では気づけないパターンを示す。土地や不動産は、人間の世代を超えてそこにあり続ける。そうした長い時間感覚を借りれば、社会や経済を超えた長期的な洞察が得られるだろう。

他者の視点を借りること、それは自分の環世界を広げることである。だから、覗き込み、学び、そして借りた以上は返す必要がある。借りるとは一時的な行為ではなく、責任を伴う取り込みである。借りた視点をどう扱うかは私たちに委ねられている。返すとは、それを応答や新しい知として差し出すことにほかならない。

ここにはアニミズム的な感性が潜んでいる。私たちは古来、ものや存在に尊敬を示し、粗末に扱わないことを重んじてきた。人工物に対しても同じだろう。

機械をただ使い捨てるのではなく、借りた視点に応答し、関わりを大切にする。だからこそ、ヒト型ロボットを蹴り飛ばすような態度を嫌う。それは単に壊れてしまうからではない。関係を断ち切り、尊重を踏みにじる行為だと感じるからである。

借りた視点は新たな抽象化を可能にする。単一の環世界に閉じている限り、そこで生まれる抽象はどうしても狭い輪郭しか持ちえないのだが、複数の視点を重ね合わせれば、思考は高次へと押し上げられ、見えなかったパターンや新たな結びつきが生まれる。

アーティファクトの環世界を考えはじめると、人間中心の世界観は揺らぐ。自然やモノの時間感覚に圧倒され、AIなどの人工物に主体性を見出すことに違和感を覚えるかもしれない。それは不安を伴う体験だが、同時に人間の役割を改めて問う契機にもなる。

はっきりした役割があるとすれば、最終的に責任を負うのは人間だけである。人工物に視点を借りることはできても、そこから生じる帰結を引き受けるのは人間だけである。私たちは創造の主役ではなく、最後に責任を引き受ける存在としての役割を担うのかもしれない。

視点を広げるとは、世界を多層的に感じ取り、人間だけの狭い殻を破ることだ。重なり合うことで、私たちの認知は従来より広く、深く拡張する。

センサーやAIの技術は、新しい望遠鏡のように、私たちに別の世界の断片を映し出す。それは人間の環世界を押し広げる道具であり、そこに見えるのは翻訳を経た姿にすぎない。だが、その像を通してしか触れられない世界がある。

多様な存在との対話の中で、私たちはどんな世界を形づくっていくのだろうか。